第九十二号|ダダイズム再考 最新号のみ掲載
戸塚愛美
あえて語る必要があるのだろうか。それほどに世界で分析され語り継がれてきた歴史であり、今ここで殊更この話題に触れることが、どんな意義があるというのだろうか。
ダダ。第一次大戦下の中立国スイスチューリッヒで始まった、既成の価値観に抗うことを目指した芸術運動。その勢いはローカルを超え、戦争中の敵対国をも、軍政の状況をいわば出し抜き凌駕し、文化・芸術で世界をつないでいった芸術の究極のかたち。ダダは、はじめて世界をまたいだ運動と言われ、今もなお多くの芸術家に影響を与え続けている。・・・ことは読者も今さら一体なにを、と言いたいだろう。それほどにダダは大きな影響を言うまでもなく与えてきた。
さて、話を戻す。なぜ、今、ダダなのか。ダダはすでに多くの分析と参照のもととなっている。その中で筆者があらためて強調しておきたいのは、その理念となる「☞ダダは何も意味しない(※1)」について。意味しないことが逆説的に力を得る時代になった。時代の流れに押し流される。哲学は木の葉のごとく乾いた空気に舞い、法は祝詞に。倫理が底をつくと表現される日々だが、底ってどこだろう。ここか? 冷たい冬の朝、東京のコンクリートを踏む。カードでタッチ決済し、円は移動し、電車に乗り、会議に出る。底に触れるよ。誰かの欲望に振り回されて、きちんとここまで来たのである。
日常はどういう状況においても死ぬまで絶え間なく続いていくわけだから、「世界が終わっても」自分は続くのだろう。しかし、世界が終わることは絶壁たるもので、みなその後の景色を口にしない、できない。危機の時代にも想像してみたい。終わりの先へ。終わりの先をはじめてみたい。そういう終末的な思考に揺さぶられているのが昨今なのだが、こういうときこそ、ダダである。すべての意思に反して、「意味しない」という境地に連れ戻される。絶望の中で絶望するなら、それは希望になる。もちろん、今やこの思想も取って代われられ、商業の場に安易になりかわってしまったともいえるが、まあなんにせよ意志はいつもここにある。
なにも意味しないって?ならいいや、意味しないならそりゃいいや、と、開き直って暮らしていくのがいいのだろうかと、一瞬よぎる。来週、どうなっているだろう。最大の絶望に震えているだろうか。それともちっぽけな歓喜に沸いているだろうか。ロマン主義に邁進した貴族たちの気持ちが、貴族でもないのにわかる気がするのは悔しいが、労働闘争に我が身をおくわけでもないし、一体なんだっていうんだろう、確かなものはなにひとつもない。
「☞ダダはなにも意味しない」
☞ 法
☞ 哀愁
☞ 昨日
この指差しが救いとなるなら、それこそ芸術は神格化され、今日も、月だの太陽だの、肉体に染み入る細胞となる。その実を理解しつつも、芸術を神格化することはいまだなお拒絶したいと添えておきたい。
破壊された文法、無意味、断片。説明不可能性を差し出そう。権威そのものを宙ぶらりんにして、別の可能性を描写したい。
第一次世界大戦前夜のヨーロッパ社会は、表面的には秩序立ち、合理的で、進歩的に見えていた。しかしその内側では、ナショナリズムの自己正当化、技術と合理性への過信、そして疑うことを放棄した。「社会的空気」が蓄積されていた。いまの社会の運営様式は「戦時的合理性」に近づいている。判断そのものを無効化する「ダダ」は極めて有効(、、)だ。
普遍的かつ、現在になおも響く、逆説的に濁りのない透き通った意志。悲鳴でもあり、共鳴でもある。これがわたしのウェルビーイング。闘争。
※1:ツァラ「ダダ宣言1918」、『ムッシュー・アンチピリンの宣言―ダダ宣言集』(光文社、二〇一〇年25pp、塚原 史訳)こちらの表記に従った。
間奏(十七)
カニエ・ナハ
あの南無のダダさんが矢鱈丁寧に揮毫して商船船長乗組人員遠洋漁業(算盤ソロ水盤ソロ皿ソロ皿皿
バルザックドボルジャーク白紙切り裂く商船船長乗組人員遠洋漁業