SvelteKit ロゴ

2026年02月17日発行

第九十四号|無題  最新号のみ掲載

戸塚愛美

ここがわたしのロマン主義、くるり。京都の青春でおなじみのバンド、くるりの新譜がでたという。もう大人になって、ぜんぜん聞かなくなっちゃったんだ、っていう人生の段階に正しく即して聞かなくなっている我が愛好。かつては凪のような、わかりやすい青春のエモーショナルに染み入る感じの音楽だったのだが、それが今や社会に絶望しているという噂を聞きつけ、いかんこれは、と久方ぶりに聞いてみたらそこには悲嘆も絶望も憐憫もなく、変わったのはこちら側だと気付かされ。だからといってなんだというのだろう。哀愁はおろか感情の鈍麻で、鈍麻するには年齢という意味で早すぎるし、Curiosityはどこへ行ったといいたいところだが、方向性が変わったのだろう。そこらじゅうにあるバンドの解散の理由みたいに言い訳してみよう。まあそれはいいんだけれど、春に近づくための雨が降り、やがては夏に、と季節がうつろいでいくことへの「イマジン」と「忙殺」の間で俺は時間の圧力に負けているね。少しは止まってくれないかと思うくらいの時間の速度をこれでもかと感じているわけで。こうやって駄文をタイピングできることも逃避の傾向だって? 正の方向に拍車をかける? かけない! かけない! 与えない! なにも与えない! 贈与に振り切るにはまだ早すぎるし、なにもあげていない! 所有することは同時に手渡すこと。与え与えられ時に奪取し、され、という連続の中のひとつで、で、これ、なにについて? 



・・・自らの言葉が鋭さを失い、次第に溺れていく様を見ていられず、我が自信は汚濁に満ちた沼のように融解するのであった。同時に、猛烈な悔しさに襲われそっとグーグルマップのレビューを閉じた。今日において、言葉は正しく武器である。鋭い刃となる言葉はすぐに敗北し惰性となる恒常性を引き裂き、膿を出す。内と外をつなぐひとつの孔のように、言葉は内と外を行ったりきたりしながら、膿を掻き、新しい空気を送り込む。ゆえに悔しさは滲む。変化の機会を失ったのだ。言葉の使い方を侮るな。言葉の力を見誤るな。安易に生成してはならない。簡単に学習性に委ねるな。過去の経験によるものではない。常に現在は新しくあり、現在に即して言葉は成される。言葉による復讐が叶わぬ今、悔しさは心の中でさらに振幅を大きくし、心を乱した。武器となる言葉を磨かねばと、野心は燃えるに燃えた。燃え、ただれた。第三者的な道具としての言葉を、振り回したい。到底以前のようには戻れない痕跡を残していきたい。言葉はかくして刺せなければ、我が利益を損することになる。安全と無難の地平に安住してしまった。大きな失敗である。息苦しいならなお、刺すべきだった。言葉はかくして刺すこともできず、日々がすべりにすべる。
某ヨガ教室の日暮里店のお姉さんが怖すぎるのであり、改善には口コミが有効と考えたのであったが、失敗に終わった。

間奏(十九)

カニエ・ナハ

するり、
掌からすりぬけて
マレット
とど、
  待ちくたびれてマリンバも シロフォンも蒼白なる
           そろそろ
  廻ってるオッペンハイムの
      あの栗鼠も
するり、
    もっとも美しい
母音も子音も
      メレットも
空にする
       しっぺ返しする
   するとするする、
エルンスト最大限スルーする
  ホシュホシュする
    シュルもスルーする
      すると、
          あの
 待ちぼうけするマリンバも
    蒼白なるシロフォンも
  もう無くてもいいかも!
 ホシュホシュする
すると、
するり、
       (マレットソロ)
するメレットも、
   しれっと

2024年03月14日発行

二〇二四年三月十四日 #1

戸塚愛美

思想。思惟の上に。書いて世に出すことを習慣化せよ、ということで週刊の、スパルタ思想家道場の門戸を喜んで叩いてしまったのは、数週間前。信用ならない肉体を忘れたままにしておきながら、夜な夜なキーボードを叩いて朝は夜に、夜は朝に。道場は野暮だけれど、道場肌なのは、育ちのせい。うそだ。ともすれば、カントやらドゥルーズやらを引っ張り出して、上書きすればいいはずだ。ちがう。太宰治、知里幸恵、小林多喜二。ときどき木戸秋。ついでになんだろう、ハンナ·アレンとでもいおうか。サバンナの象のうんこよ聞いてくれ、とでも言おうか。言おうか、という問いかけに対していうならば『べつに言わなくてもいい』。それで、なにをいうというのか。

遊びの上手いひとがいる。遊びの上手い人は、上手い遊びを思いつく。大きく出た。遊びのうまさには、寛大さと、海の水がお酒のように美味しく飲めるみたいな、酔狂のような、強靭な胃しかり肉体があるような、ないような、春みたいな、夏みたいな、秋みたいな、冬みたいな、心が必要。

その点、最近のわたしは無駄に神妙だ。お笑いにならない。逃避にも聞こえない。大きなことを言わないでいいと気が抜ける。とたんに何もいえなくなるあたりのリアリティ。戸塚思想。この習慣は、小さく、なるべく些細に、ときに大胆に、繰り返し、混ぜ返し、自らの足で立つ小さな営み、すなわち芸術に、必要な時間の虫食いを担っていただく心づもり。ところで心づもりというのは、漢字で書くと「心算」というのだから面白いね。心まで管理しようとしていて、人間はどこまでも素晴らしい。
本質をつく、というのはどういうことか。人間の合理主義は多かれ少なかれ、コスパだろうが、タイパだろうが、現実の問題と背中合わせで、前を進むように促される。いずれも変化することを求められる。このとき、人のやさしさとか、思いやりとか、そういう態度が重要だと、敬愛するチャップリンが独裁者という映画で言っていて、言っていてというのは、解釈した上でだが、美しい。美だと思う。勇気凛々が阿保に見える精神状態ではじめよう。それで、鑑賞の態度が固定された不自由で希有な展示で脱走を試みた、おおらかな詩人の遊びの余白を拡張しよう。行ったり来たりしよう。火に触れるみたいに、自由に。

思想としてエスタブリッシュメントするには、なるべく長生きが必要とのことで、枯渇しない精神を鍛えるには人と関わることよ、と過去の自分がささやく現在地。読者には時間を。貧血ぎみの私には、プロテインを。詩人には、余白を。


ロゴについて:
敬愛するデザイナーがロゴをつくってくれたが、その心は、というと、

「思想という漢字にふたつ付いている心は、思想の漢字そのままだと、心が潰れてみえてしまいます。なので、田+心・相+心で思想の漢字を新たにつくりました!この思想の心はなにもつぶしたりしていません。つぶれてほしくなかったからです。」

思想(一)

カニエ・ナハ

「十二月になったら思想家になる」と戸塚が言った十一月の声を思い出していた
さっきファミマの向かいの未だ微か香ってる沈丁花の生垣のところ無数の鳥の囀りがして
ちょっとデモに行ってくる、と云って木崎さんはそれきりもどって来なかった
知ろうとしてるうちに知ってることが知らないことになるリモコンが見当たらない
おなかが戦争みたいに痛い